難しいことだとは思う。我が子が、我が親が突然連れ去られたとする。主権者として国民は、怒りで連れ去りの実行者である市職員を厳しく追及することとなる。私たちは民主主義憲法の下で生きてきたので、恐らく人権侵害を受けていることは肌感覚でわかる。今日は、母親をだまし討ちのようにして、市役所の手で連れていかれた息子さんが来て相談対応する。高齢者虐待対応は県ではなく市の任務となっているからだ。

 虐待疑いをかけられた場合は、その判断は誤りだと追求するいつもの展開では、深みに足を取られるから注意が必要だ。虐待防止は先日も申した通り、戒厳令下と同様、組織の判断で警察を動員して有無を言わせず連れ去りが決行できるという、治外法権的な法律が制定されているからだ。経験のない若い職員に何がわかると叫んだとしても、この職員は県知事や市長をも凌ぐ圧倒的な権力を行使できる存在であり、この職員が判断して初めて、愛しい我が子や愛する母親を取り戻すことができる。如何に人道的判断をしてもらえるかがカギとなる。

 今日の息子さんに助言したことは、まず一番に何を手にしたいかを選んで欲しい。職員を違法、憲法違反だと追求して謝罪を求めることか、それとも、親の持つ残り少ない命の時間を使い、これまでのような親子の交流を図りたいか、後者を選ぶなら、前者は脇に置いておく決意をして欲しい。高齢者虐待疑いで親が離された場合、認知機能が維持される時間、命が存在する時間が限られるので、行政措置の取り消しといった時間のかかる行為にかまけていられない。「違法行為を訴えるなら、建設的話し合いはできない」と若い職員は、母を15年も自宅で介護してきた息子さんに言う。とにかく、人道的な判断を求め、残り少ない親子の交流を求めることが先決だ。あなたの怒りをなだめ収めて目的を達成するために舵を切ったらどうだろう。

 つたない私の説明を聞いていただき、この間、一人で理不尽な事態に耐えてこられたその息子さんは、時折泣いていらした。あなたが折れることではない、最も大事な目的のために、その若い職員さんにわかってもらえるよう、その方の気持ちに訴えかけることは年長者のあなたしかできないからと。建設的話し合いに向けての文書をつくったら見せてね、と伝えて見送った。