市内で憲法の勉強会を熱心に行っているグループがある。昨日はいわゆる「共謀罪」、組織犯罪処罰法についての勉強会を行うとのことで、情報をいただいたので参加した。50名以上のたくさんの方が参加されていたということは、それだけこの法律への「気持ち悪さ」を感じる方が多いということの表れである。中には戦争の時代を経験されている方も来場されていて、体験者にしかわからないその時の感覚が発言されていた。「気持ち悪さ」という感覚は、長い間、現憲法により形成されてきた日本という社会に生きてきて、その感覚からの違和感である。「諸外国からの危機」に対抗するために「自由」が犠牲になることを我々は経験していない。戦争体験者は、正にそれが当たり前と思ってきた時代を知っているのだ。
先日のエジプト報告の中で、「近年、革命を経験した若者(この若者を生み出したのは、他国の制度を学び、意見交換する学校教育の成果と言われている)は、自由の無さに不満を募らせているが、行動することで、隣国のようなテロの惨状に巻き込まれることが分かっているので、大きな声を挙げないである。」という発言があった。不満を思う、気持ち悪さを思うから、思いがくすぶるのである。行動は始まるのである。
組織犯罪処罰法(「共謀罪」)は、⓵権力に抗する者を徹底的に排除する仕組みであり、⓶排除される危機を見せつけて人々を委縮させる仕組みである、との整理がなされていた。⓵⓶は今も正に、人々の社会の中に暗黒のように張り巡らされた感覚であり、とりわけ権力者・為政者にとって、民意の高まりは独裁的コントロールを脅かす嫌悪の対象となっている。その権力者に取り入る人は、委縮社会に足をとられ、自身の自由を放棄するのだ。この間、60年、70年安保世代がベースとなって、若者世代が表に立って、脱原発、反安全保障法案などの人々の潮流をつくってきていることは間違いない。その潮流の高まりこそが、為政者には不都合極まりないのだ。
私は、大学に入学したばかりの右も左もわからない時に、当時、社会学という一般教養科目の中で、「建物を支えるたくさんの柱がある。ひとつが折れても気づかないが、一定を超える柱が折れてしまったときに、建物は一気に崩れる。」と示された見解が今も自分自身の背骨をつくっている。壊されていく柱を見て見ぬふりはしないこと・・これは日々の私の判断のよりどころである。「見て見ぬふりをしないこと」とは何か。簡単なことである、その理由を言葉に出して発信することである。言葉は最大の武器であるし、互いの勇気を刺激し合う触媒である。